真徳寺(赤門)
以前は、本山役僧が住職を務めており、講中の宿泊所でもありました。そもそも当寺は真光院・栖徳院・善徳院・貞松院といった遊行寺の塔頭でした。由緒沿革は不明ですが、4院はたびたび火災によって、いずれも困窮はなはだしく、ときには住職が退散することも少なくありませんでした。真光院の住職が、栖徳院・善徳院を兼務することもあったといいます。
しかし、明治13年11月26日の大川屋よりの出火によって焼失し、明治31年に4院の仮堂を造営し一時をしのいでいます。大正6年になって、時の管長河野法善(こうの ほうぜん=尊昭上人)師は4寺の頽廃(たいはい)を嘆かれ、群馬県多野郡の仙源寺住職吉川法眼に、大正7年に本堂一宇を建立させて栖徳院として再興されました。
また大正15年に庫裏を建立して仮に真光院として再興させ、本堂および庫裏は前記4ヶ寺による共同使用とされました。当時はいまだ寺号尊重のため合併を行わなかったが、同一の本堂および庫裏を使用して同一の住職によって宗務を行い、本尊(法要その他の儀式行事)等も同一のものを使用しました。よって4ヶ寺は当然1ヶ寺の形態をなしており、世俗に赤門と称されました。
さらに、昭和8年に真光院住職に就任した吉川喜善もまた前住職同様他の4ヶ寺の寺務を行う状態でした。そのため4ヶ寺の檀家総代から時宗管長星徹定(ほし てつじょう=一教上人)大僧正に4ヶ寺合併の陳情書が提出されたのは、昭和17年3月15日で、4ヶ寺が合併および寺号改称が認可されたのは昭和19年になってからです。
◆おすすめの散歩コース◆
【コースA】
惣門→赤門→真浄院→鐘楼→一遍上人像→地蔵堂→本堂
【コースB】
敵御方供養塔(怨親平等の碑)→長生院→小栗判官照手姫の墓→歴代上人御廟所
【コースC】
惣門→いろは坂→明治天皇御膳水→宝物館→中雀門→放生池→宇賀弁財天
◆境内の文学碑◆
河野静雲の句碑 清水浩の句碑 青木泰夫の句碑 通暁の句碑
川田順の一遍上人を讃える長唄 鈴木貫介の歌碑 高橋俊人の歌碑
俣野大権現 黒門 御番方 山門跡 江の島一の鳥居袴石 手洗鉢 円意居士墓 中里理安・理益の墓 南部茂時の墓 酒井忠重逆修六地蔵 酒井忠重五輪塔 堀田家三代の墓碑 稲葉家基碑と隅切三 新田満純公墓碑 戦没者供養塔 戦没者慰霊名号碑 大悲水子地蔵菩提像 畜霊供養塔 魚鱗甲貝供養塔