真教上人のご生涯
二祖・真教上人 | 嘉禎3年(1237)~文保3年(1319)
◆真の後継者
宗祖一遍上人は「遊行」に身命を投げ打たれので、寺院を建立することや、教団を創立する意思はありませんでした。「一代の聖教みな尽きて南無阿弥陀仏になりはてぬ」、「我が化導は一期ばかりぞ」いうお言葉からもその姿勢がうかがえます。
しかし、その意思に反して、亡くなった後もそのお姿を慕う人々や教えを相続してほしいという声は絶えませんでした。その声に答え、遊行の法灯を継承し、実質的に教団を築かれたのが、他阿真教上人です。
真教上人の出生は豊後(大分県)とも京都とも伝わっており、一遍上人に出会われる前までの経歴の多くが不明です。
建治3年(1277)41歳の時、九州を遊行していた一遍上人に出会い、教えに感銘をうけ、最初のお弟子となられました。そして「他阿弥陀仏(他阿)」の名を授かり、以後12年間遊行を共にされます。(真教上人はこの「他阿弥陀仏」の法号を以後の遊行上人に名乗らせます)
◆真教上人の遊行
法灯を継いだ真教上人は、最初の遊行の地として越前方面(福井県)、加賀方面(石川県)を選ばれます。京に近く、念仏信仰の土壌が豊かであったことなどが理由でしょう。その後、越中・越後(新潟県)から関東・東海道方面へと遊行し布教を重ねられます。正安3年(1301)、再び越前国に入られると、真教上人は角鹿笥飯(敦賀気比)大神宮に参詣し、時衆とともに自ら「もっこ」を担いで砂をお運びになったといわれ、時宗ではこれを「遊行の砂持」と呼び、今日でも新しく遊行上人を継ぐと、この行事が行われています。
真教上人の遊行は、布教の点で一遍上人のそれをさらに発展させたものでした。
一遍上人の遊行は、旅の性質上、法話を聞いたり、教えに触れたりする機会に継続性がありません。
そこで、真教上人は全国各地に念仏道場を建立し、僧侶の育成、布教等に力を入れられます。これにより全国の時衆にまとまりが生れ、教団としての強い基盤がつくられていきました。
◆教団発展の支柱
嘉元2年(1304)、真教上人は弟子の量阿弥陀仏智得に法灯を譲り、相模原当麻(現・相模原市南区)の無量光寺に独住(遊行をやめること)されます。
理由ははっきりしませんが、当時、時衆教団は全国に勢力を広げていたので、増加した念仏道場や信者への指導・布教のためではないかと推測されています。常に移動を伴う遊行では、全国からの様々な依頼に対応することが困難だからです。
この独住は15年間に及び、その間も一遍上人の教えを広めるために、『道場誓文』をおつくりになるなどして点在する時衆道場の統率、時衆教団の発展に尽力されました。
◆ご遺訓
文保3年(1319)1月27日、真教上人は無量光寺において83歳で示寂されます。
残された多くの手紙・和歌・法語などは、『他阿上人法語』全8巻として近世に編纂されました。また伝記として、『一遍上人縁起絵(遊行上人縁起絵)』10巻のうち後半6巻に真教上人の業績が述べられています。そのご功績を偲び、時宗では「大聖(おおひじり)」の尊称をもってお呼びいたします。
法語の中では、一遍上人の述べられた「一切のこと(知恵や愚痴、善と悪など)を捨てて申す、捨ててこその念仏」について繰り返し説かれました。まさに一遍上人の真の後継者として、その身を捨てて、衆生済度に尽力された御姿がうかがえます。