一遍上人と藤沢
一遍上人が初めて藤沢の地を踏まれたのは弘安5年(1282)のことです。
すでに遊行の旅は8年間が過ぎ、九州・四国・山陽・近畿・奥州・関東を回られていました。
そしてこの春、常陸・武蔵を経てぶくろ坂から鎌倉入りを目指されます。鎌倉は幕府の所在地、将軍は惟安親王、執権は北条時宗でした。
当時、鎌倉では禅宗の寺院が北条氏の保護を受けて盛んになるのをみて、各宗の高僧たちは鎌倉での布教をこころみます。また、仕事と食料を求める浮浪の人々も数多く集まってきました。ありとあらゆる階層の人々が、せまい鎌倉市中にひしめいていたのです。
一遍上人も多くの民衆への念仏勧進を願い、鎌倉に入ろうとされました。ところが、こぶくろ坂で警護の武士が行く手を遮ります。もっとも、幕府としては、浮浪者の取り締まりを厳しくしていた鎌倉に、乞食のような恰好をした僧尼の一団を入れる訳にはいかなかったのです。
武士に棒で叩かれながらも一遍上人は、「人々に念仏を勧めて歩くことが私の命である。このように制止されれば、どこへ行けばいいというのか。いっそこの場で命を終えよう。」とおっしゃいました。一遍上人の衆生化益への強い意志がうかがえます。気迫に圧倒されたのか、武士は鎌倉の外では布教が禁止されていないと告げます。そこで、一遍上人は片瀬(神奈川県藤沢市)へ向かい、別時念仏会、踊り念仏を修されたのでした。
この時、一遍上人がはじめて藤沢の地に足跡を印したのです。ただ、のちに遊行四代呑海上人がこの藤沢に遊行寺を開き、それが総本山になろうとは一遍上人自身の思いもよらないことであったでしょう。