一遍上人のご生涯

遊行の旅人 一遍

「旅ごろも 木の根かやの根 いづくにか 身の捨られぬ 処あるべき」とは、その生涯をかけて一生不住の旅から旅を続け全国に念仏を流布させた時宗宗祖一遍いっぺん上人(1239~1289)の和歌です。この和歌が象徴しているように一遍上人は、全国を遊行し、念仏札を配り(賦算ふさん)、踊り念仏で数多くの人々に念仏の教えを弘めました。

 

史料

一遍上人は、自らの臨終に先立ち「一代聖教いちだいしょうきょう皆尽きて南無阿弥陀仏なむあみだぶつになりはてぬ」(『一遍聖絵いっぺんひじりえ』第11)と述べ、所持していた経典以外の書籍を自ら焼き捨てました。

そのため、今日、一遍上人の著作は、現存していませんが門下の時衆が筆録した法語があります。成立年代として最古とされる『播州法語集』(金沢文庫本)や近世になり編纂された『一遍上人語録いっぺんしょうにんごろく』です。

また、その生涯については、一遍上人の俗弟あるいは弟子とされる聖戒しょうかいが法眼円伊とともに没後10年目にあたる正安元年(1299)に完成した『一遍聖絵』(国宝、清浄光寺しょうじょうこうじ蔵)全12巻と、二祖となる他阿真教(1237-1310)の伝記を含めて編纂された『一遍上人縁起絵えんぎえ』(別称、『遊行上人縁起絵』、前4巻が一遍伝で後6巻が真教伝です)全10巻です。

一遍上人の生涯を知るには『一遍聖絵』がもっとも信頼できますが、時宗教団の変遷においては、『一遍上人縁起絵』を軽視することはできません。

 

生い立ち

一遍上人は、延応元年(1239) に伊予国道後(現、愛媛県松山市)周辺に勢力を誇った河野家こうのけに誕生しています。河野家は、瀬戸内海一体を支配していた水軍であり、源平の合戦では源氏に御方し功績を挙げました。しかし、承久の乱(1221)では、上皇側に御方し敗北したため、一族は離散没落していました。

そのような状況のなか一遍上人は、10歳で母と死別し、父である河野通広(法名を如仏)の勧めもあり出家しました。出家した一遍上人は、浄土宗西山せいざん義祖證空しょうくう上人(1177-1247)門下で、太宰府にいた聖達しょうだつ上人(生没不詳)に入門しました。すぐに肥前国にいた證空上人門下の華台けだい上人(生没不詳)のもとに行き、浄土教の基礎を1年ほど学び、再び聖達のもとに戻り弘長3年(1263)まで学びました。

 

再出家

弘長3年春、父、河野通広の死によって伊予に帰国し、半僧半俗の生活を過ごしていましたが、輪鼓を回して遊んでいたとき、輪廻から解脱する方法を気づき再出家を志しました。

文永8年(1271)に再出家した一遍上人は、信州善光寺に参詣した折に唐代善導大師『観経疏かんぎょうしょ散善義さんぜんぎに説く譬喩ひゆの「二河白道にがひゃくどう」の図を写しました。このころ得たことをまとめ作られたのが「十一不二頌じゅういちふにじゅ」です。

一遍上人は、伊予に戻り窪寺くぼでらで念仏三昧の日々を3年間過ごし、空海ゆかりの地でもある岩屋寺に参籠しました。この岩屋寺の参籠後、文永11年(1274)2月8日一遍は、所有していたすべての財産を放棄し一族とも別れ、超一、超二、念仏房(この三人と一遍上人は俗縁がありましたが詳しくは不明です)と途中まで同行した聖戒とともに遊行の旅へ出たのです。

 

遊行の旅へ

 

人々と念仏とを結び付けるために一遍上人は、念仏札を配り歩きました。このことを賦算といいます。これは、算(念仏札)を賦(配)るという意味です。念仏札には、「南無阿弥陀佛なむあみだぶつ 決定往生けつじょうおうじょう 六十万人」と書かれています。これは、念仏勧進のための方法であり、六十万人とあるのは一遍上人が目指した数でもあり、一切衆生を意味しています。一遍上人は、文永11年(1274)に大阪の四天王寺で初めて賦算を行いました。一遍上人の遊行の旅は、四天王寺から高野山を経て熊野へと向かったのです。

 

熊野成道

一遍上人は、この熊野の地で一大転機を迎えます。山道で一人の僧と出会った一遍上人は、念仏札をわたそうとしますが信心が起きないので受け取れないと拒まれ、押し問答の末に無理矢理わたしてしまうのです。この出来事で苦悩した一遍上人は、熊野権現くまのごんげんにすがるため、熊野証誠殿に参籠します。すると山伏姿の熊野権現が現われ、念仏勧進の真意を一遍に示しました。

このとき、熊野権現は一遍上人に「融通念仏ゆうずうねんぶつを勧めている聖である一遍よ、なぜ、間違った念仏を勧めているのか、あなたの勧めによりはじめて人びとが往生できるのではない。すべての人びとの往生は、十劫というはるか昔に法蔵菩薩が覚りを得て阿弥陀仏に成ったときから南無阿弥陀仏と称えることにより往生できるのである」と告げられました。このことを熊野権現の神勅しんちょくといい、このときを立教開宗としています。

そして、この境地を表したのが「六十万人頌ろくじゅうまんにんじゅ」です。一遍上人は、同行していた三人を熊野の地で放ち捨て、迷うことなく念仏札を配り16年間に及ぶ念仏勧進の旅を続けたのでした。

国宝『一遍聖絵』第3巻 (部分) 熊野権現に出会う

 

時衆の形成

弘安元年(1278)九州で一遍上人は、後に二祖となる他阿真教上人(1237-1310)と出会い、同行を許してからその人数も次第に増え時衆が形成されていきました。ちなみに、中世では時衆、近世以降は時宗と表記され区別されています。

一遍上人は、信州佐久(現、長野県佐久市)で踊り念仏を始めました。当初、これは、意図的ではなく自然発生的に行われ、しだいに形式化されていったと考えられます。遊行の旅は、南は鹿児島の大隅八幡宮(現、鹿児島神宮)から北は東北へと広範囲に及びました。

特に江刺えさし(現、岩手県北上市)では、祖父河野通信の墓参を行いまし。弘安5年(1282)には、鎌倉へと入ろうとしました。しかし、鎌倉入りを目前に小袋坂(現、鎌倉市小袋谷付近)で行く手を阻まれたため、一遍上人は、片瀬の浜地蔵堂(現、神奈川県藤沢市)へと移ることになります。ここでは、突如、踊屋が登場し踊り念仏がその上で行われました。この踊り念仏は、数日行われたくさんの人びとで賑わいました。

弘安7年(1284)一遍上人は、一路京都を目指しました。四条京極の釈迦堂へ入った一遍上人のもとには、念仏札を受けようと多くの人びとが集まっていました。あまりにも多く人が集まったため一遍上人は肩車をされ念仏札を配るほどでした。その後、「我が先達」と慕った空也上人(903-972)ゆかりの六波羅蜜寺を訪ね、空也上人の遺跡市屋で踊り念仏を行ったのです。

正応2年(1289)7月、一遍上人は、「いなみ」で終焉を迎えようとしていたようですが、兵庫から迎えが来たため兵庫観音堂(現、兵庫県神戸市真光寺)に移動しました。臨終に先立ち8月10日の朝に一遍上人は、『阿弥陀経』を読みながら所持していた書物を焼き捨て、「釈尊一代の教えを突きつめると南無阿弥陀仏の教えになる」と述べています。ついに8月23日、一遍上人は、漂白の旅に明け暮れた51年の生涯を閉じました。16年の遊行の間、念仏札を配った人数を『一遍聖絵』では、25億(万)1千7百24人と記しています。

国宝『一遍聖絵』第12巻(部分) 一遍上人の臨終

 

 

参考文献

大橋俊雄校注『一遍上人語録』(岩波書店 1985年)

梅谷繁樹 講談社現代新書『捨聖一遍上人』(講談社 1995年)

大橋俊雄校注『一遍聖絵』(岩波書店 2000年)

高野修『時宗教団史』(岩田書院 2003年)

釈 徹宗『法然 親鸞 一遍』(新潮社 2011年)

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