鐘楼

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この鐘楼は南北朝時代、正平11年、北朝の延文(えんぶん)元年(1356)に造られています。当時の遊行寺の住持は遊行八代他阿渡船(とせん)上人です。この上人は遊行上人として初めて佐渡に渡って念仏勧進された方で、記録によると、佐渡を巡り終わって越後柏崎に上陸、国内を遊行中、その年の12月22日に藤沢遊行寺に独住されていた遊行六代一鎮上人が入寂されています。遊行七代託何上人は正平9年、文和3年(1354)に七条道場金光寺で入寂されていたので、延文元年2月室町幕府の足利尊氏、鎌倉府の公方足利基氏(もとうじ)から越後寺泊(えちごてらどまり)に滞在中の渡船上人のもとへ、すぐに遊行寺へ入寺住持になるようにと御教書(みぎょうしょ)が届き、渡船上人は3月29日高田応称寺(現・称念寺)において遊行九代白木(はくぼく)上人に遊行をゆずって藤沢に帰山しています。

渡船上人がもどった遊行寺は、前住職の一鎮上人によって、仏殿の造営が行われており、その事業のしめ括(くく)りとして、梵鐘の鋳造がくわだてられました。藤沢に帰った渡船上人の最初の仕事がこの梵鐘の完成でありました。

現在、境内の鐘楼にかけられているこの鐘は、総高168センチ、口径(こうけい)92センチで、この金の池の間4面に489文字の漢文の序文と銘文が陽刻されています。その奥書には、「時也延文元年7月5日 沙弥(しゃみ)重阿 住持他阿弥陀仏 遊行八代冶工大和権守(やこうやまとごんのかみ)光連 願主沙弥給阿等 南無阿弥陀佛」と刻まれています。延文元年は北朝の年号で、南朝では正平11年(1356)です。沙弥とは、時衆では出家の僧と在家の信者との中間にあり、半僧半俗的な存在で、客寮(きゃくりょう)とも呼ばれていました。冶工大和権守は、鎌倉地方の鋳物工物部氏の一族で、南無阿弥陀佛は渡船上人の自筆です。

 

平和を願って造られた鐘ではありますが、この鐘自身も数奇(すうき)な運命をたどりました。それは永正10年(1513)1月29日、遊行寺は兵火のために全山焼失するという災難にあいました。戦国の時代の到来です。ここ相模国では伊勢長氏(北条早雲)と三浦義同(入道道寸)との戦いが繰り返され、遊行寺はその戦場となって焼きはらわれたのでした。それ以後、徳川時代になるまでの約一世紀の間廃寺同様となり、住職である藤沢上人もここに住むことができませんでした。梵鐘も北条氏によって小田原城に持ち去られました。

 

天正18年(1590)7月小田原城は豊臣秀吉によって落城します。慶長12年(1607)遊行寺の再建が完成し、遊行三十二代普光上人が遊行寺の住持となりました。伽藍は再興されたましたが、鐘はありませんでした。shoro_600_1
藤沢大鋸の中里八郎左衛門里安(りあん 理庵とも)という人が、小田原城主と談判を重ね、新しく鐘を造って交換するということで、その費用を負担して新しい鐘を鋳造し、古鐘を引き取って寺に寄進したのでした。寛永3年(1626)12月下旬のことと記録されています。新しく造った鐘は小田原市荻窪の寿昌寺にあり銘文に「藤沢山清浄光寺」とのみ陰刻(いんこく)されています。

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◆おすすめの散歩コース◆


【コースA】

惣門赤門真浄院鐘楼一遍上人像地蔵堂本堂

【コースB】
敵御方供養塔(怨親平等の碑)長生院小栗判官照手姫の墓歴代上人御廟所

【コースC】
惣門いろは坂明治天皇御膳水宝物館中雀門放生池宇賀弁財天

 

境内の文学碑

河野静雲の句碑 清水浩の句碑 青木泰夫の句碑 通暁の句碑

川田順の一遍上人を讃える長唄 鈴木貫介の歌碑 高橋俊人の歌碑

 

◆境内の史跡◆

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