一遍上人略年表
西暦 | 年号 | 年齢 | 事項 |
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1239 | 延応元 | 1 | 一遍上人伊予で誕生。幼名を松寿丸という。 |
1248 | 宝治二 | 10 | 母に死別。出家して随縁と名のる。 |
1251 | 建長三 | 13 | 春、僧善入と九州太宰府の聖達上人をおとずれる。 その勧めで肥前清水の華台上人にあずけられ修学する。 この時、智真と改名する。 |
1252 | 建長四 | 14 | 聖達上人のもとに帰り、浄土教を学ぶこと12年。 |
1263 | 弘長三 | 25 | 父通広(如仏)が亡くなり、故郷に帰る。 これより半僧半俗の生活を送る。 |
1271 | 文永八 | 33 | この頃一念発起して再び出家する。師聖達上人を再訪。 春、善光寺へのこもり、二河の本尊を描き、念仏一路の決意をし、秋、伊予・窪寺に閑居、念仏三昧の修行をする。 十一不二頌を作り、一切を捨て衆生済度の志を立てる。 |
1273 | 文永十 | 35 | 7月、菅生(すごう)の岩屋寺にこもり、遁世(とんせい= 俗世間を逃れて仏門に入ること)の素意を祈る。 田園舎宅を捨てて、諸国修行に出ることになる。 |
1274 | 文永十一 | 36 | 2月8日、同行三人と伊予をあとにして、遊行の旅に出る。 桜井(今治)で聖戒(弟子)と別れる。天王寺にこもり、 十重禁戒を受け、念仏賦算(南無阿弥陀仏と書かれた お札をくばること)をはじめる。 夏、高野山を経て熊野にこもる。本宮証誠殿で熊野権現 より念仏賦算の神託を受け、「六十万人頌」を感得し、 六十万人知識一遍と号す。 6月13日、新宮から聖戒に便りして念仏の形木を送り、他力念仏の真義を教える。 |
1276 | 建治二 | 38 | 再び伊予を通り九州へ渡り、聖達上人を訪ね、一遍の念仏を説く。大隅正八幡宮にこもる。豊後大友頼泰帰依。ここでのちの遊行二祖真教上人が入門する。 |
1278 | 弘安元 | 40 | 夏、伊予へ。秋、安芸の厳島。 冬、備前藤井で吉備津宮の神主の子息夫婦を教化。出家するもの二百八十余人。 |
1279 | 弘安二 | 41 | 春、都へ上がり因幡堂に宿す。 8月、因幡堂を出て善光寺に向かう。 12月、信濃国(長野県)佐久郡伴野で歳末別時念仏を修行する。大井太郎帰依。踊り念仏をはじめる。 |
1280 | 弘安三 | 42 | 秋、下野(栃木県)小野寺。白河関を越えて奥州入り、 江刺郡で祖父通信の墓(聖塚)をおとずれる。 |
1281 | 弘安四 | 43 | 松島・平泉をめぐり、常陸を修行。武蔵石浜(浅草)で時衆4,5人病にふす。 |
1282 | 弘安五 | 44 | 3月1日、鎌倉に入ろうとして武士に制止され,片瀬(神奈川県藤沢市)の地蔵堂で念仏を勧め滞在。踊り念仏行う。 7月16日、片瀬をたち、伊豆三島明神に参詣。 |
1283 | 弘安六 | 45 | 尾張甚目寺-萱津-美濃-近江をめぐる。 |
1284 | 弘安七 | 46 | 閏(うるう)4月16日、近江関寺から京都四条釈迦堂に入る。因幡堂-三条悲田院-蓮光寺-雲居寺-六波羅蜜寺-市屋とめぐる。 5月22日、市屋をたって桂に移る。秋、北国に向かい、穴太寺にこもる。 |
1285 | 弘安八 | 47 | 5月上旬、丹後久美浜・但馬くみで竜神の血縁。因幡-伯耆(ほうき)-美作(みまさか)をめぐり、美作一の宮へ参詣。 |
1286 | 弘安九 | 48 | 天王寺-住吉-聖徳太子廟-当麻寺。 冬、石清水八幡宮-淀の上野-印南野教信寺に一夜泊まる。再び天王寺にもどり別時念仏をする。 |
1287 | 弘安十 | 49 | 1月1日、天王寺如一上人入寂。一遍上人ら葬送する。尼崎-兵庫光明福寺とめぐる。 春、播磨書写山-松原八幡で「別願和讃」を作る。 3月1日、十二道具の持文を書く。備中軽部宿-備後一宮-安芸厳島と遊行する。 |
1288 | 正応元 | 50 | 伊予に渡る。菅生岩屋寺-繁多寺に3ヵ月こもる。 12月16日、大三島大山祇(おおやまずみ)神社にこもる。 |
1289 | 正応二 | 51 | 2月6日、再び大三島へ参り、生贄(いけにえ)をとどめる。讃岐善通寺-曼荼羅寺をめぐる。 6月1日、阿波・大島里河辺で発病する。 7月はじめ、阿波をたち、淡路島福良に移る。二宮-しつき天神社。 7月18日、明石に渡る。兵庫より迎えの舟が来て兵庫観音堂(現在の時宗真光寺)に入る。 8月2日、遺誡の詞を聖戒に書きとらせる。 8月10日、所持の書籍等、持ち物を焼く。 8月23日、辰の始(朝7時)入寂する。 |