◆境内の史跡◆
俣野大権現 | 黒門 | 御番方 | 山門跡 |
江の島一の鳥居袴石 | 手水舎 | 円意居士墓 | 中里理安・理益の墓 |
南部茂時の墓 | 酒井忠重逆修六地蔵 | 酒井忠重五輪塔 | 堀田家三代の墓碑 |
稲葉家基碑と隅切三 | 新田満純公墓碑 | 戦没者供養塔 | 戦没者慰霊名号碑 |
大悲水子地蔵菩提像 | 畜霊供養塔 | 魚鱗甲貝供養塔 |
俣野大権現
地蔵堂前に建つ小さな社は「俣野大権現」社で、埼玉県長久寺によって寄進建立されたものです。祭神は俣野五郎景平であり、開山呑海上人の兄であり、また当時の大檀越でもありました。貞和年中(1345~49)に没し、のち俣野大権現として山内の文学蔵と称される土蔵の前に祀られていました。また灯籠が一基あり、文政6年(1823)7月17日と記されています。
黒門
中雀門の左側、寺務所・僧堂への入口に黒門があります。古図によれば遊行寺の黒門であって、現在は惣門(総門)を黒門と称していますが、これは明治以降のことです。
御番方
本山の受付は近侍司寮(ごんじしりょう)と呼び、信徒・団参の方々は、この御番方(ごばんかた)と呼ばれる入口から入ります。この建物は明治13年(1880)11月の大火で類焼し、大正2年(1913)2月23日上棟されました。関東大震災によって、本堂・大書院その他多くの建物と同様に倒壊しましたが、すぐに倒壊当時の古材をもって再建されました。なおこの建物に施されている彫刻類は、一部江戸時代の彫り物をそのまま使用したのではないかと言われています。
山門跡
「いろは坂」を登りつめた処が山門跡で、明治13年に焼けるまで銅屋根の仁王門あり、「藤沢山」と書かれた東山天皇の勅額(ちょくがく=天皇などが寺院に特に与える直筆の書で記された額)がありました。現在は本堂内にあります。
江の島一の鳥居袴石
宝物館入り口の前にある袴石(はかまいし)は、もと遊行寺橋際に建てられていた、かつての江の島詣での道者がくぐった鳥居の袴石です。一般に江の島一の鳥居とよばれ、最初に建てられたのは明和6年(1769)頃で、寄進者は江戸麹町の秩父屋孫七です。のちに朽ちたが再度建てられ、明治13年(1880)の大川屋火事で焼失したが、その翌年14年4月に三代目として建立されましたが、しかしこの鳥居は藤沢駅通り拡張工事にともなって取り除かれた。この袴石はその時のものです。碑には世話人として「祠官筥崎伝尹」とあります。
手水舎(登録有形文化財)
明治100年記念として、手洗鉢が新設されました。その説明書には「住古より余ってかへる遊行寺の手洗鉢と世人の諺にまで謂われ文化財にも比すべき本堂前の手洗鉢が大東亜戦争の戦災に遭い資源不足のためにやむなく供出され、茲に25年篤志家の御賛同を得て復元いたしました 昭和四十四年三月廿六日」とあり、発起人6名の名前が記されています。
円意居士墓
境内鐘楼の前に「円意(えんに)居士供養塔」があります。円意居士は江戸鍛冶橋の小林宗兵衛の父で、浅草日輪寺にあった宗学林の建物にあたって、金500両を寄進し、また月供料として15両も施している大施主です。また、『一遍上人語録』の刊行にあたっての施主としても知られた人物です。この本宗の篤信に対して建てられたものは供養塔です。自然石を二個積み重ねたような碑は、円意居士の人柄そのままのようです。自ずと頭が下がる思いがします。
中里理安・理益の墓
小田原北条氏によって持ち去られた梵鐘は当町大鋸の住人、中里八郎左衛門理安によって、梵鐘は無事取り戻すことができたのである。寺では遊行三十五代法爾(ほうに)上人いらい『遊行藤沢両御歴代霊簿』の裏に、代々の上人の自筆でこの功績を讃えることばと一族の戒名を載せるのが例となった。そのため遺骸も鐘の近所に埋葬されました。現在鐘楼の前には理安の墓と、その子理益の墓碑があります。
南部茂時の墓
鎌倉幕府滅亡のとき、これに殉じた南部茂時主従の墓が放生池横にあります。当寺との関係は「太平記」に記されていますが、南部茂時が鎌倉で自害されたとき、家臣の佐藤彦五郎は主人の遺骸を遊行寺に運び入れて葬ってもらったというのです。なぜ鎌倉の寺々ではなく遊行寺にまで運んだのかというと、遊行寺には阿弥陀の住んでおられる霊場として知られていました。他阿弥陀仏である遊行上人は弥陀の代官であるという思想、そのお上人からお念仏(お十念)をいただきお札を受ければ必ず極楽浄土に往生できるという信仰があり、それゆえに遊行寺まで逃れて来たのだと考えられます。また、鎌倉の寺では、茂時は幕府、つまり北条高時側の賊軍の将であるということから、新田軍をさける必要があったのではないでしょうか。その新田義貞(にったよしさだ)も、のちに福井県丸岡の時宗称念寺に眠っているのも仏縁かもしれません。
酒井忠重逆修六地蔵
銘文によれば萬治3年(1660)1月15日に酒井長門守忠重が施主となって、藤沢山の住持十七世他阿慈光(じこう)上人(遊行三十九代)の代に建立されました。施主の酒井長門守忠重は出羽鶴岡城主酒井忠勝の弟で逆修のために建立されたとされます。
酒井忠重五輪塔
この五輪塔には、「寛文六(1666)丙午歳 光岳院殿従五位 前長州太守 鏡誉宗円大居士 酒井長門守忠重 九月十八日」と記されています。忠重は、萬治3年(1660)六地蔵供養塔を建立しており、翌年には万日堂(念仏堂)をも寄進しています。遊行三十九代慈光上人は羽州最上(うしゅうもがみ)の出身であることから、忠重との関係は深いものがあったのではないでしょうか。忠重は下総市川に蟄居中(ちっきょちゅう)に不慮の死を遂げており、六地蔵供養塔・万日堂(念仏堂)の寄進者としてその遺骸(いがい)を遊行寺に葬(ほうむ)ったと考えられます。
堀田家三代の墓碑
遊行寺の東門を入って右側に「小栗堂入口」の石柱があります。これを長生院に向かって20m行くと右手の土手の上に、一際大きな尖塔角柱型(上の写真)の5つの墓碑があります。堀田正利夫妻・正盛夫妻・正仲の墓です。「藤沢山日鑑=遊行寺の日々の出来事等を記した記録」には、毎年のように堀田家からの墓参の様子が記録されています。さて、この5つの墓碑の内、直接埋葬されたのは正仲であり、正利は浅草日輪寺に、正盛は東叡山の現龍院に葬られています。そして正利・正盛の墓碑を遊行寺に建立したのは正俊です。正俊は正盛の三男で母は酒井忠勝の女であり、家光の命によって春日局の養子になりました。この正俊がなぜ正利・正盛の墓を遊行寺に新たに建立したのかについては明らかではありません。ただ、正俊は領地を高座郡(神奈川県)にもっていたことと正利は覚阿という阿号をもっていた時宗の信徒であり、その関係から日輪寺に埋葬されたと考えられます。正俊は幕閣内においても勢力をもって来たことと、時宗の信徒として総本山に墓石を新たに建立することになったのではないかと考えられます。正仲の墓石には「常楽院殿其阿法漢映性大居士」とあり、さらに元禄7年(1694)7月6日卒とも刻まれています。
稲葉家基碑と隅切三(すみきりさん)
時宗の宗紋は、「折敷に三文字紋」、「隅切三(すみきりさん)」です。これは一遍上人が出られた伊予の河野氏の家紋から採られました。稲葉家の家紋は、「折敷に三文字紋」、時宗の宗紋と同じなのです。寛永4年(1627)、稲葉正成公が真岡二万石の城主となりました。正成公は、この偶然に驚きました。この「折敷に三文字紋」は、瀬戸内海の大三島に鎮座する三島神社(大山祇神社とも称される)の神紋であり、大三島大明神を氏神とした越智氏の家紋となりました。そして、越智氏から分かれた一族も又、「折敷に三文字紋」を家紋としました。著名なものとしては鎌倉期に河野水軍を率いて瀬戸内海を治めた河野氏、戦国期に活躍した稲葉氏、来留島氏などがあげられます。稲葉氏と一遍上人が出自した河野氏は、活躍した時代は違えども伊予越智氏から分かれた一族であり、それぞれ歴史上に名を残す人物を輩出しています。正成公は、「折敷に三文字紋」が証する稲葉家と宗祖一編上人を仰ぐ時宗との縁を大切にしたとのことです。
新田満純公墓碑
禅秀方の将軍であった岩松(新田)満純の死骸が、戦乱の終わった直後の応永24年(1417)1月14日に遊行寺に葬られました。「法龍天用」と刻んだ石塔があったといいます。新田25代俊純は、自分の代では満純の墓を再建できずその子忠純男爵によって、大正7年(1916)8月に再建できました。墓石は御影石で正面に「南無阿弥陀仏」とあり、裏面に「新田十代裔(えい)新田治部大輔満純之墓」と彫られ、右側面に「応永廿四年閏五月十三日」と誌されています。また、満純の墓のかたわらに墓碣があります。その碑文には、「新田満純公は、先祖は清和天皇から出た新田義貞の末裔である。義貞は亡くなった祖父で亡父、義宗の母の里は、岩松氏で、兄義顕は勤王のために死んだ。満純公は幼児だったので、母方の岩松満国のもとに逃れ、満国の嫡男満氏が早世したので、養子となって岩松を名乗った。のち、義宗の嫡男貞方の死によって新田氏岩松氏が合流して新田岩松氏と称した。応永23年(1416)、妻の里、上杉氏憲(禅秀)とともに足利持氏と戦ったが敗れ、部下を卒いて岩松郷へ帰った。持氏は部将を派遣してこれを討たしめた。満純は武蔵国入間川で合戦をしたが、ついに捕らえられ、鎌倉龍の口で斬られた。応永24年閏5月13日のことである。遊行寺の太空上人は、満純の遺骸を持氏に願い求めこれを境内に葬った。満純の長子家純は諸国をさすらい、のち美濃国土岐氏をたよる。さらに朝廷および足利六代義教将軍の命を受けて鎌倉征伐に向かった。足利持氏を滅亡させたのである。その功によって、新田氏旧領を与えられた。これ以降代々新田荘に住み、明治年間、新田俊純は満純公の墓に詣で、これを再建したいと思ったが、墓があれ果てていて、墓石まで分からず俊純は心配しながらも忠純に墓石の再建を申し付けた。そして大正七年八月完成した」(原文は漢文)と誌されています。
戦没者供養塔
遊行七十代一求(いちぐ)上人による戦没者慰霊名号碑と同時に、藤沢市戦没者の会によって、供養塔が東門の左側「敵御方供養塔」の側に建立されています。碑には「倶會一處(くえいっしょ) 戦没者供養塔 遊行七十世他阿一求書」とあります。趣旨は戦没者慰霊名号碑と同様です。「倶會一処」とは、極楽では多くのもっとも善き者と共に一つの所にいるという意味です。
戦没者慰霊名号碑
本堂に向かって左側に大きな碑に「南無阿弥陀仏」とあり、その台座に「昭和十二年七月より同二十年八月に至る戦乱に於て落命せる有縁無縁の犠牲者の冥福を祈り併せて仏陀の慈光弥々(いよいよ)一切の人類に遍(あま)ねからんことを祈願して此碑を建つ永代に亘り供養回願怠る可にざるもの也 昭和廿五年四月廿三日 開眼 遊行七十世他阿一求上人 御代」あります。
大悲水子地蔵菩薩像
本堂東側に大悲水子地蔵菩薩像が昭和56年(1981)11月18日に直檀鈴木肇氏によって寄進建立されたものです。
畜霊供養塔
昭和9年(1934)5月1日 高座郡農会と高座郡畜産組合が発起人となって建立された「畜霊供養塔」の書は秦堂栗原宣で、手洗鉢は高座郡南部豚商組合の寄進です。
魚鱗甲貝供養塔
放生池(ほうじょういけ)の前に魚鱗甲貝供養塔があります。遊行七十三代・藤沢五十六世他阿一雲上人 平成9年(1997)遊山會と記されています。