◆境内の文学碑◆
河野静雲の句碑 | 高橋俊人の歌碑 |
清水浩の句碑 | 青木泰夫の句碑 |
川田順の一遍上人を讃える長唄 | 通暁の句碑 |
鈴木貫介の歌碑 |
「生きていて 相遇(あいあ)ふ僧や 一遍忌 静雲」
放生池の池畔に昭和44年4月27日に建立されたこの句碑は、高浜虚子門下の時宗の僧である河野静雲の作です。
「感傷も今宵はよろし開山忌あがないてもつ葡萄の房を 俊人」
俊人(としんど)は、明治31年8月に藤沢大阪町に生まれ、昭和51年1月13日に没しました。アララギ歌人として知られた、若山牧水に師事し「菁藻(せいそう)」「まゆみ」「創作」を主宰し、藤沢市民短歌会会長を歴任した歌人で、旧制浦和中学校・藤嶺学園藤沢高校で教鞭を執りました。
「春愁と いふ傘さして ひとりかな 浩」
句碑の裏には、昭和4年神奈川県生まれ 清水基吉門 俳人協会会員 平成24年10月建立と記されています。
「戦後遠し 働く蟻と 迷ふ蟻 泰を」
泰夫は昭和3年に生まれ、昭和63年3月11日に没しました。俳誌「波」を主宰し藤沢俳句協会会長でした。句碑には「泰夫の句風を偲ぶ人々により思い出多き此処遊行寺に最初の句碑を立てる 昭和63年9月18日」とあります。
糞掃衣(ふんぞうえ=ぼろ布を洗ってつづり合わせて作った僧衣)すその短く
くるぶしも臑(すね)もあらはに
わらんちも穿(は)かぬ素足は 国々の道の長手の
土を蹈(ふ)み石をふみ来て にしみたる血さえ見ゆかに
いたましく頬(ほほ)こけおちて おとかひもしゃくれ尖(とが)るを
眉は長く目見(まみ)の静けく たくひなき敬虔(つつしみ)をもて
合せたる掌(て)のさきよりは 光さへ放つと見ゆれ
伊予の国伊佐庭の山のみ湯に来て為(な)すこともなく
日をかさね吾は遊ふを この郷に生まれなからも
このみ湯に浸るひまなく 西に行き東へ行きて
念仏もて勧化(かんげ=仏の教えを説き、信心を 勧めること)したまふみすかたを
ここに残せる一遍上人 川田 順
「心の花」の佐々木信綱の高弟として知られる川田順の一遍上人を讃える長歌碑です。この詩は昭和21年秋、松山市宝厳寺にあった木彫の一遍上人像(重要文化財)を拝して作詩されたといいます。歌友春日井曠氏に送られた自筆(京都安養寺蔵)をもって、順の十三回忌の昭和53年4月3日に建立されました。なお石材は江戸城石垣の石で銅板をはめこんであります。
宇賀神社の左側にあり、通暁については藤沢の俳人ではないかといわれています。
「もののあわれも知らさりし 少年にてこのみ寺の 小野小町の歌を読みしか」
鈴木貫介は、国府津に住み、川田順に師事した歌人です。